ぶらこうじカルテ No. R-010-1 名称: 玉造界隈
場所:大阪市天王寺区玉造 ぶらこうじ指数: 70 =大阪の起源となる歴史資産の多い地区=
印象:古代、このあたりは玉作ノ岡と呼ばれていた。東側は河内湾の湊になっていて、大陸との交易の要衝であった。玉造から難波宮、大阪城周辺までを含む生玉庄は、大阪の起源の地である。難波の宮の膝元で玉造部の人々は勾玉を作っていた。古代の三種の神器のひとつである。
その勾玉を遣隋使などが大陸へ貢ぎ物として、または交易品として持っていった。
このころから当地には玉造稲荷神社があった。その後、城を築いた秀吉は玉造稲荷神社を守護神として崇め、淀君と月見や花見に訪れた。現存の石の鳥居は子の秀頼の寄進である。境内にある豊臣秀頼の銅像はとてもイケメンでアイドルのように見える。
玉造稲荷神社からすこし南西に歩くと善福寺に「どんどろ大師」があるが、ここもお大師さんの毎月21日には賑わうスポットだった。
近松半二らの歌舞伎「傾城阿波の鳴門」の八段目、巡礼お鶴が大坂へ出た父母の十朗兵衛とお弓を探して、この「どんどろ大師」で出会うクライマックスシーンがある。そのため知名度が高く、特に戦前は大坂の名所のひとつであった。
天保のころ、大坂城代の土井利位(としただ)の屋敷に空海を祀るこの大師堂があったため、土井殿がなまって「どんどろ」になった。現地にお弓とお鶴の出会いの場を再現した銅像もある。
地下鉄の玉造駅のある東西道路は昔の伊勢参宮本街道で、ここは街道筋の宿場町でもあった。ここから暗峠を越えて奈良経由で170㎞、伊勢神宮へ参詣した。玉造から南へ延び、鶴橋へいたる日の出通り商店街は今もにぎやかだが、戦前は心斎橋や天神橋の商店街と変わらないぐらい繁盛していた。それは、森の宮の砲兵工廠(現OBP)へ鶴橋から通う工員の人々の通勤路にも当たっていたからである。
この辺りから生野区一帯は在日の人々の居住も多い。鶴橋周辺はもと百済郡百済郷の地で、仁徳天皇の時代に百済の帰化人が集団居住したところである。優れた土木技術集団であった百済の帰化人は、河内湖の埋め立て・耕地化や架橋、難波の堀江の開削など大坂の繁栄のためのインフラ整備を担った。
後の時代になって、近代化の基盤となる河川の付け替え・改修などにも多くの朝鮮人労働者が集められ、先述の砲兵工廠などもあって、鶴橋周辺は在阪朝鮮人でふくれあがった。済州島からの直接航路もあったため、在日の22%が済州島出身と言われている。
鶴橋から南へ10分ほど歩くとコリアタウンとして知られる御幸通り商店街がある。ここでは大半の店が在日の経営である。
鶴橋駅東一帯の鶴橋国際市場は現在大変な盛況であるが、戦後の焼け野原の出現した闇市が母体であり、他にはない固有の雰囲気を持っているのも人気の理由であろう。(清水.h 2017.3)
ぶらこうじカルテ No. R-010-2 名称: 玉造界隈
場所:大阪市天王寺区玉造
印象:森ノ宮から玉造を経て鶴橋まで街並みを踏査した。この界隈は、大正から昭和初期の時代には、現在で言えば梅田から心斎橋、難波に相当する大阪でも有数の賑やかな場所であった。
玉造交差点から鶴橋に向けて南方に向け約500メートルの商店街がある。日之出通商店街という。鶴橋から大阪城東側の砲兵工廠(現在はOBP)までの通勤路にあたるこの商店街は、今は少しシャッターが増えているが、往時はかなりの繁華街だった。アジア最大の軍事工場と言われた砲兵工廠の従業員はピークには約6万4千人(関連企業を含めるとその3倍)と言う。日之出通商店街がその相当部分の人の需要を賄ったから、活況ぶりは想像できる。劇場、映画館も相次いで建設され活況を呈したが、その内のひとつ、「三光館」は、昭和5年にエンタツ・アチャコのコンビが第一声を上げ、漫才発祥の地と言われたところである。三光館も今はなく、その跡地には、今でイズミヤスーパーが建っている。(写真下)
時代の流れといえばそれまでだが少し寂しい気がする。(室井 2017.3)
ぶらこうじカルテ No. R-010-3 名称: 玉造界隈
場所:大阪市天王寺区玉造
印象:今回のスタートは、森之宮キューズモール。ここから上本町まで上町台地の東橋を南に下るルート。森之宮キューズモールは、私にとっては日生球場跡地といったほうが土地勘がわく。今では、小さな子どもたちが思い思いに遊ぶ姿が目に付く素敵な空間に生まれ変わっている。
歩を進めると上町台地の高低差を肌で感じる風景に多く出くわす。大阪にも坂道が結構残っていることに改めて気づかされる。この尾根筋に、玉造稲荷神社、三光神社、産湯稲荷神社など由緒ある祠が点在しており、それぞれの祭神が大阪の東側の稜線を見守っている防人の務めを果たしているように感じた。(吉田 2017.3)
ぶらこうじカルテ No. R-010-4 名称: 玉造界隈
場所:大阪市天王寺区玉造
印象:今日は玉造周辺のぶらこうじである。地下鉄森ノ宮駅に集まり、早速玉造神社を訪れる。大阪城の三の丸があったところで、かつては豊臣秀頼、淀君が居住していたようだ。また江戸時代に数百万人の人が参加したと言われるお伊勢さん参りの大阪からの始点でもある。伊勢神宮までおおよそ170キロを5~8日かけて、大阪玉造―暗峠―奈良―榛原―伊勢神宮と歩いて辿ったらしい。
次いでどんどろ大師と言われる真言宗善福寺を訪ねる。正門には数年前に整備された看板があり、「傾城阿波の鳴門」の舞台との記載がある。歌舞伎あるいは浄瑠璃で有名な場面のやりとりが展開された場所である。ほとんど歌舞伎、浄瑠璃を見たことがない私でも、子供の頃に聞いたセリフ、[そなた、国はどこじゃえ]、[してして、かかさんの名は?][アーイー、お弓ともうします]を何故か憶えている。
さてさて、次は三光神社である。昨年大河ドラマ「真田丸」の一つの舞台となった三光神社を訪ねる。大阪城の出城の真田丸があったところで有名であるが、境内には七福神の寿老人が祀ってあり、大阪市七福神巡りの西の始点でもある。
さらに近くの江戸時代に創建された産湯稲荷大明神に参拝する。境内の井戸は、藤原氏そして中臣氏の祖とされる大小橋命(おほおばせのみこと)が産湯に使ったと言われており、子も場所は飛鳥時代以前の時代にタイムスリップする。
約2時間の神社巡りがメインの玉造ぶらこうじは終了し、近くの鶴橋が終点で名物の焼肉で打ち上げである。 (三塩 2017.3)