OSAKAぶらこうじ見聞記 ◆東高野街道

ぶらこうじカルテ  No. R-012-1  名称:東高野街道 

場所:東大阪市の宝蔵新家界隈          ぶらこうじ指数:76 

   =東高野街道と奈良街道の結節点にあたる元宿場町=

印象:生駒山の西麓に沿って南北に直線的な古道、東高野街道が今も残っており、曽ては京都から高野山への参詣道として「京みち」とも呼ばれていた。また古代の南海道を継承する古道でもあった。この街道を石切神社のあたりから瓢箪山まで歩くと、途中、近鉄奈良線の枚岡駅の西側あたりでこの街道が旧暗越奈良街道と交差する。暗越奈良街道は「大坂みち」とも呼ばれ、大坂から河内平野を経て生駒山の暗がり峠(標高455メートル)を直登で越える道で、大坂奈良間を八里八町(34キロメートル)の最短距離で結んでいた。曽ては奈良経由で伊勢参りをする人々で賑わう道でもあった。

東高野街道と暗越奈良街道とが直交するこの交差点はもと河内郡の宝蔵新家と呼ばれた村の東端にあり、両街道の要衝であったことが古い石標などからも想起出来る。(清水h 2017.11) 

(写真上)東高野街道と暗越奈良街道の交差する辻には地蔵尊が祀られ街道を表示した石標が残っている。(写真下)街道の辻近くの民家 

ぶらこうじカルテ  No. R-012-2  名称:東高野街道

場所:東大阪市瓢箪山界隈  ぶらこうじ指数:76 

          =瓢箪形の古墳を背に祀られた瓢箪山稲荷神社= 

印象:今回の「ぶらこうじ踏査」は東高野街道を石切から瓢箪山に南下した。近鉄瓢箪山駅前の賑やかな商店街から左折すると「瓢箪山稲荷神社」がある。裏手に小さな丘を抱えた趣のある神社である。丘と見えたのは実は古墳で、6世紀頃にこの地域で騎馬を飼育していた渡来系氏族の墓と推察されているが、二つの円墳の形から瓢箪山の名前が付いたそうである。稲荷神社は、秀吉が大坂築城の際伏見桃山城から「ふくべ稲荷」を歓請して創建されたという由緒がある。「ふくべ稲荷」とは、平たく言うと「丹後の元伊勢神宮から伏見に来た瓢箪の神様だ」と後で知った。

また、東高野街道は江戸時代から辻占の風習があったそうだ。多くの辻占は、通りすがりの人の言葉の内容(通りの人の言葉は神様の神託という考え方から)で占うのだが、辻占の総本社の瓢箪山稲荷神社は、言葉ではなく鳥居前を通る人の性別・服装・持物・同伴者から判じるのが特徴だそうだ。事前に知っていたら、一張羅の服装に同伴者も厳選して(!?)臨んだのだが、もう後の祭りかナア。 

踏査レポートと言うより、歴史話を繋ぎ合わせたような内容になったが、それだけこの街道は、由緒ある古代道路と言う事だろう。河内湖周辺の湿地帯を避けて生駒山の山麓沿いに南北に走るこの街道沿いには歴史豊かなポイントが沢山あり大変興味深い。(室井.2017.11 

ぶらこうじカルテ  No. R-012-3  名称:東高野街道

場所:東大阪市石切~瓢箪山方面  ぶらこうじ指数:76 

印象:今回は、石切神社がスタート。近鉄石切駅からの坂道沿いに、いろいろなお店が連なる参道を抜けて、境内に入る。神社の正式名称は石切劔箭神社、いしきりつるぎやと読むらしい。それを象徴するように、入口にあたる山門・絵馬殿の屋根には、「つるぎ」と「や」が輝いているが、親しみ込めて石切さんと呼ぶ人が多い。私もその一人である。石切さんといえば、霊験あらたかなおできの神様と聞かされており、小さい頃には「なで守り」で体を撫でてもらった記憶がある。石切さんのご利益を求めて、この日も多くの人がお百度を踏んでいた。

ここから、生駒山の東麓をくだり、東高野街道を南下する。途中、東すぐ「ならいせ」、南すぐ「こうや」と力強く彫られた大きな石の道標に出くわす。この付近は伊勢詣でと高野詣での多くの人々が行きかう街道筋に当たったらしいことをこの石標が現在に伝えている。そのまま進むと、瓢箪山駅付近で旧街道の面影とは一変するアーケード商店街に入る。街道沿いのお店がそのまま商店街に変貌してきたと思われるが、ここを抜け、ゴールの瓢箪山稲荷神社に到着する。この神社の縁起を見て、初めて瓢箪山という地名のいわれが分かったことが大きな収穫の一つとなった。

(吉田.2017.11