OSAKAぶらこうじ見聞記 ◆旧枚方宿

ぶらこうじカルテ  No. R-015-1  名称:()枚方宿 

場所:大阪府枚方市堤町界隈       ぶらこうじ指数:88  

=京街道・淀川舟運の中継港の宿場町再生=

印象:今回は、市内から離れて、大阪と京都の中間点、京街道の宿場の面影の残る京阪・枚方市駅付近を踏査する。枚方宿は、東海道53次の京から伏見、淀と続いて東海道56番目の宿場で、守口を経て大坂に至る重要なルート上にあった。

 枚方宿の東側の入り口、東見附から旧の京街道を大阪側に歩いてみる。車1台ぐらいが通れる幅のみるからに旧街道らしいたたずまいが続いている。そのところどころに宿場町を思わせる格子家並が残る中、本陣跡を過ぎ、浄念寺の前では街道が鍵型の形状となり、歩いて行くとつきあたって角を折れまた角を曲がるということになる。これは桝形と呼ばれる道路構造で、外敵からの攻撃を防ぐため、宿場町の出入り口に必ずと言っていいほど設けられていたようである。

 さらに西に進んで鍵屋資料館に訪ねる。ここはかつては船待ち宿で文字通り淀川の舟運を担っていて、いわゆる枚方の「くらわんか舟」が行きかった往時の姿が偲ばれる。

 最後に枚方市駅に戻り、京街道とは駅を挟んで反対側の南口ロータリーに20165月にオープンしたT-サイトに立ち寄る。蔦屋書店を主体に、カフェや物販店などを併設し、多くの利用客がごったがえす商業施設である。キュービックのような凸凹感あふれるユニークな外観も人目を引きつけ、駅前を一変させたランドマークになりつつある。いわば現代に「宿場」の賑わいがよみがえったようである。(吉田.2019.3

ぶらこうじカルテ  No. R-015-2  名称:枚方宿・鍵屋  

場所:大阪府枚方市堤町       

=京街道五十六次・淀川舟運の中継港の宿場町を代表する旅籠=

印象:枚方の歴史は「ひらかた」の名が日本書紀に登場するほど古い。江戸時代、この一帯は東海道の五十六番目の宿場町として栄え、淀川を行き交う舟の中継点でもあって水陸交通の要衝として栄えた。枚方宿と呼ばれ、1.5キロほどの街道筋に370棟ほどの町家が軒を連ねていた宿場町で、今も旧家が数多く点在している。 

現在はミュージアムとなっている鍵屋は1600年頃からの淀川を往来する三十石船の船待ち宿で、主屋は文化8年(1811)の建築。枚方宿を代表する町家で、表は京街道に面し、裏は淀川に面しているため、船への乗降に最適な構造となっている。三十石船の乗降客相手に酒や餅を売る「くらわんか舟」の商売は、河内弁で「酒くらわんか、餅くらわんか」と呼びかけるのが枚方の名物になっていた。近代以降の料亭であった別棟は現在展示館となっていて、枚方宿や三十石船、くらわんか舟などの資料が揃っている。(清水h.2019.3

ぶらこうじカルテ   No. R-015-3  名称: (旧)枚方宿  

場所:大阪府枚方市堤町        

=京街道五十六次・淀川舟運の中継港の宿場町を代表する旅籠=

印象:今回の踏査は、枚方宿(京街道)を東見附から西見附に向かって淀川左岸を歩く。旧街道の所処に昔を偲ばせる建築物が残っている。街道は歩き易いように整備されており、驚いたのは、時代は様々だが沢山の道標が残されていることだ。(写真下)

  鍵屋資料館は、もと旅籠「鍵屋」を枚方市が保存して観光PR拠点としているもの。古文書や出土遺物等が展示してあり、六十三畳の大広間からは淀川の視界が広がるなど、江戸時代の街道の様が知れて面白い。資料館の入口には、枚方宿(しゅく)で有名な「くらわんか舟」がリアルに展示されている。三十石船に昼夜を問わず小舟で横付けし、「くらわんか」と大声で叫びながら、餅や酒を販売したことからこの名がついた。「くらわんか」とは、「喰わないのか」、「喰うことのできないくらい銭もないのか」という意味のこの地の乱暴な方言である。粗野で挑発的な言葉が、身分の上の客に対しても横行したのは、幕府より「無作法御免」の特権が与えられていたかららしい。

 枚方宿が、東海道の宿と決定的に異なるのは「片宿」という点である。下りは安価の淀川の舟運が使われたため、枚方の街道の客は、大半が上りであったという。資料によれば、人足では約8割、伝馬に至っては95%が上りという偏りようである。下りは「空荷」で戻ることになるため、経済的には苦しかったようだ。

 「くらわんか」は枚方宿の特色だが、「片宿」で財政困難ということと、「無作法御免」の特権が与えられたこととは関係がありそうだ。

三十石船もくらわんか舟も、鉄道の開通とともに姿を消してしまったが、往時を偲びつつ、京阪電車で京橋に向かうこととした。(室井.2019.3