OSAKAぶらこうじ見聞記 ◆宝塚小浜

ぶらこうじカルテ  No. R-017-1名称:小浜宿(宝塚) 

小浜宿(有馬街道)のジオラマ模型は、宝塚市立小浜資料館浜資料館でみることができる。1851年の記録では202戸、人口800人。旅籠、脇本陣、木賃宿、商家、馬借、芝居小屋等が軒を連ね、大変な賑わいを見せた。

 

場所:兵庫県宝塚市小浜(旧摂津国川辺郡小浜町)

=江戸時代は京伏見街道・有馬街道・西宮街道の結節点の宿場町=

印象:宝塚の中心は「小浜」だったと言えば驚く人が多いと思うが、近代までは小浜(こはま)が、このあたりの地域つまり摂津国川辺郡の中心地であった。9世紀には、ここに国府が置かれ、その後、15世紀末覚如の末裔の善秀により「毫摂寺」(ごうしょうじ)が建立されてからは、一向宗勢力の拠点となり、寺内町として発展した。伊丹台地の西端に位置し、川と池で囲まれた地形が城塞化に適していたからと思われる。駅前高層ビルのからはその特徴が視認できる。有馬街道、京伏見街道、西宮街道が交差する交通の要所で、江戸時代には、宿場町として大いに栄えた。阪神淡路大震災で貴重な建造物等が多く被災したが、今でも、小浜資料館、旧和田家住宅、国府橋、いわし坂、代官所跡など往時の街並みや街道を偲ぶことができる。

 小浜宿を後にし、旧有馬街道沿いに清荒神を経て宝塚駅まで歩くこととした。この道は、440年前、有岡城から救出された黒田官兵衛が不自由になった足で有馬まで逃れたといわれている道だが、この日は、官兵衛には申し訳ないような秋の気配ただよう快晴で、旧有馬街道の心地よい散策となった。(室井.2019.10(令和元年)) 

(写真左)小浜資料館は、山中鹿之介を祖先とする山中家(医業)の跡地に、小浜地域の歴史を紹介する資料館として平成6年に開館したもの。

(写真中、右)菊仁、もと酒造業の井川家、築250年の古民家。 

ぶらこうじカルテ  No. R-017-2名称:小浜宿(宝塚)  

場所:兵庫県宝塚市小浜界隈         ぶらこうじ指数:88 =江戸時代は京伏見街道・有馬街道・西宮街道の結節点の宿場町=

印象:今回は宝塚市の小浜地区を訪ねた。ここは、東から来る京伏見街道、南から入る西宮街道、北へ向かう有馬街道が交差していた宿場町である。ボランティアガイドの下村さんの案内で街並みを散策(写真左)

 このエリアは、街道の結節点でもあり、鉄道が敷設されるまでは、役所機能もこの地区にあったそうでいわば宝塚の中心地の役割を担っていたといえる。また武庫川から一段高くなった台地上にあり、周囲は川に取り囲まれ、天然の要害といえそうである。15世紀末ごろに創建された毫摂寺の寺内町として発展してきた土地で、阪神大震災前まで往時の家並が数多く残っていたそうであるが、震災の被害に多くがあうものの、道路幅や区画割は昔のままで、街道筋の面影を色濃く残している。

 その一角に、江戸幕府が1711年(正徳元年)に全国の宿場町に一斉に設置した高札場(写真中)があり、忠孝札、火付禁止札、切支丹札、毒薬札、駄賃定札などが掲げられた。小浜宿資料館には、その正徳札の現物が保存展示されており、当時の社会情勢をうかがい知ることができる。

 三つの街道の出入り口には、それぞれ町を守るための門が設けられていたようで、その門跡そばに祀られた愛宕宮(写真右)が住民の安寧を今に祈っている。(吉田2019.10(令和元年)) 

ぶらこうじカルテ  No. R-017-3名称:小浜宿(宝塚) 

 小浜から有馬街道を北へ抜けると隣の旧米谷村に旧和田家住宅がある。江戸時代中期に築かれた市内最古の民家で摂津丹波型の典型様式となっている。格式の高い庄屋の家として「角屋」(写真右)と呼ばれる座敷があるのが特徴で、庭の方へ飛び出しているので角屋(つのや)と呼ばれている。この座敷の襖は京都高台寺で使われていたものと同じ紋が入っている。旧和田家住宅は現在、宝塚市立歴史民俗資料館として無料公開されている。

(清水h.2019.10(令和元年))